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| 日中平和友好条約締結25周年、池田名誉会長の日中国交正常化提言35周年を慶祝する「偉大な指導者 周恩来」展の広島展が03年7月3日から13日まで、広島市東区の創価学会広島池田平和記念会館で開催された。同展は、中国大使館、周恩来・ケ穎超記念館、南開大学周恩来研究センター、日中友好協会などが後援。 | ||
| 周恩来総理を慕い、中国人民が今なお歌う歌がある。 「人民の総理を 人民は愛し 人民の総理は 人民を愛す 総理は人民と甘苦をともに 人民は総理と 心ひとつに」 |
![]() 開幕式でのテープカット |
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| かつて池田名誉会長は語った。 「周総理の生き方と人格を深く知るほどに、感銘することの一つは、“人民に奉仕する”という姿勢を生涯貫かれたことである」と。「民衆のために」――それは、あらゆる指導者が絶対忘れてはならない心。不世出の「人民の総理」の「偉大なる魂」を伝える展示の淵源は、79年、東京・元赤坂の迎賓館での総理夫人のケ穎超女史と池田名誉会長(当時会長)の3度目の会見にさかのぼる。席上、名誉会長は、周総理の偉業を日本の国民に伝えるために、“周恩来展”の開催を熱情込めて語った。 時は巡り、国交正常化30周年の02年、待望の展示が実現し、これまで全国9都市で順次開催、合計116万人が訪れた。広島展では、9万5千人を超える市民が観賞した。 |
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周総理の遺言「中日世々代々の友好」を青年の熱と力で |
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| ●「池田会長とはどんなことがあっても会わねばならない」 1974年12月5日一期一会の出会い 一期一会となった周総理と池田名誉会長(当時会長)の出会い(74年12月5日、北京)。会見当時、総理と外国人は会わないことになっていたという。それほど病状は悪化していた。なのに、なぜ会見は実現したのか。 そこには、総理の強い意志があった。事実、総理の代理として、ケ小平副総理との会見が終わっていた。 ケ穎超夫人は、医師団全員の反対を押し切っての会見だったことを、ジャーナリストの西園寺一晃氏に語っている。 「恩来同志は言いました。“池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない”と」 周総理は既に60年代初めから、創価学会に注目している。人を介して、会長に伝言も届けられていた。68年の国交正常化提言も熟読。会見で語った。 「池田会長は中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしい」(「周恩来と池田大作」朝日ソノラマ刊) |
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青年革命家の誕生 |
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| 1898年、江蘇省に生まれた周総理は、天津の南開学校に入学する。 19歳で日本へ留学。しかし、次第に日本の軍国主義に失望し、列強に蹂躙(じゅうりん)される祖国を救うため、帰国を決意する。「桜の咲くころに日本を発ちました」。1919年の4月であった。 帰国後、「五・四運動」に身を投じ、学生組織「覚悟社」を結成。その後、パリへ留学。青年革命家に成長していく。 |
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20世紀の奇跡「長征」 |
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| 行軍12500キロ――険難を越え、激流を渡り、銃弾の雨をくぐり、東京・ロンドン間に匹敵する距離を歩いた「長征」(34年〜36年)は、「20世紀の奇跡」と言われる。 いつ果てることもなく続く死の行軍。周総理のいた主力部隊も、出発時の8万6千余が、1年後には4千余人に減った。 嘆く同志に周総理は言った。「われわれはいま、長征をやっているが、同時に革命の宣伝もやっているのだよ」「遠いところへゆけばゆくほど、われわれはまた、ますます多くの人びとに、革命の影響をおよぼすことができる」(「革命児周恩来の実践」新井宝雄著) 「西安事件」を経て37年、国民党との「国共合作」に成功。抗日戦争を勝利に導く立て役者となった。 | ||||||||||||
人民の中へ青年の中へ |
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| 「ただ人民のために」に生きた総理。青年を愛した総理。「人民のために働いて働いて、尽くして尽くし抜いて、命を消耗させていけば、立派に死ぬことができる」と。 手術台の上からも、雲南の鉱山労働者の健康を心配し、指示を出す総理であった。 創価学会を信頼し、日中友好の橋渡し役に選んだのも「民衆の中から立ち上がった団体」ゆえであった。 | ||||||||||||
平和の戦人 |
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| 周総理は、新中国建国と同時に総理と外交部長(外相)を兼任する。 54年、インドのネルー首相と「平和5原則」を宣言。翌年、バンドン会議で第三世界を結束に導いた。 「すべての人間から苦しみをなくすということを、共通の了解にしようではありませんか!」と。 70年代には対米、対日国交正常化を実現。世界の安定を築いた「平和の戦人(いくさびと)」であった。 | ||||||||||||
繁栄中国へ回天の劇 |
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| 池田名誉会長は、周総理を「20世紀の諸葛孔明」と語る。「東洋の丈夫(ますらお)」とも。 名誉会長と会見したころ、内には不治のガン、外では「四人組」との戦い。「繁栄中国」へ、歴史を回天させゆく壮絶なドラマの渦中であった。 74年の入院から逝去まで10回の大手術。それでも病室で激務を続ける。 そんな周総理に四人組は、輸血中に電話をかけ、治療中に押しかけ、命を縮めようと図った。 76年1月、逝去。四人組が、総理を偲ぶ声を抑えようとすればするほど、民衆の怒りは増した。「死せる総理が、生ける四人組を駆逐し始めていったのである」(名誉会長) 10月には、四人組が逮捕。ケ小平が復権し、周総理が示した「四つの現代化」を進め始める。 | ||||||||||||
代表的な展示品から |
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来賓の声 |
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| ●民衆に尽くす人生に共感 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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| 開幕式には約140人の来賓が参加 | 9万5千人目の来場者に記念品が |
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記念講演 |
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| 周恩来とその時代 ――“池田提言”の歴史的意義
講師 |
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| 小林文男氏 | |||
| 「偉大な指導者 周恩来」展の開催を記念して、第103回広島学講座が7月6日、広島池田平和記念会館で。 広島大学名誉教授で、中国・復旦大学客員教授の小林文男氏を講師に、「周恩来とその時代――"池田提言"の歴史的意義」と題して記念講演が行われた。 |
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| 「周恩来とその時代――“池田提言”の歴史的意義」をテーマに | |||
| 周総理が名誉会長に託された日中友好の大道を青年の手で | |||
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歴史の真実とは何であったか――。 40数年前、私は中国を初訪問。この訪中で初めて周恩来総理とお会いする機会がありました。以来、今まで70回以上、訪中しています。胡耀邦元総書記、胡錦濤国家主席とも親しい間柄でした。 総理は1898年の生まれ。彼は戦争と革命の時代を駆け抜けました。日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争……。 ここ広島は日本軍国主義の最大の拠点でした。半世紀に及ぶ戦争は広島(宇品から出兵)から始まり、ヒロシマ(原爆投下)で終わったのです。 また、総理は国民党との内戦にも頭を悩ませましたが、卓抜した調整能力と国際感覚で、毛沢東を支え、外交・内政に死力を尽くしました。 受難は続きます。3年連続の自然災害、ソ連(当時)との関係悪化、文化大革命と困難な状況のなか、彼は常に人民のことを考え続けました。 総理は真の“儒者(じゅしゃ)”でした。「儒」とは「人に仕える」という意。「人民のため」――生涯、彼は民衆の中で生きた指導者です。これ以上、人民を苦しめたくはなかったのでしょう。総理は他国との友好が最良の道と考えていました。 そんな時、池田名誉会長の「日中国交正常化提言」が発表されました。“日本と中国の関係改善なくして世界の平和はない”と。 当時、私は香港にいましたが、提言はすごい反響。日本の新聞報道と比べて、中国系の新聞には提言が大きく報じられました。 ニクソン訪中、そして田中角栄による日中国交正常化の動きは、提言に始まったといって過言ではありません。 晩年、ガンに侵された総理が命懸けで会おうとされたのが池田名誉会長でした。総理が魂を注いで切り開いてきた両国友好の大道を提言に見いだし自身の思いを、名誉会長に託されようとしたのだと思います。 その意味からも創価学会の皆さん、特に若い方たちには、さらに日中友誼(ゆうぎ)の大道を切り開いていただきたいと心から念願しています。 (要旨) |
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![]() 敦煌芸術院から名誉会長に贈られた2体のラクダの剥製(はくせい) |
周恩来展―友誼(ゆうぎ)の新章節へ | |
| 2人の“人道の巨人”に思う | ||
| 中川美術館館長・世界美術評論家連盟 <日本支部>会員 |
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| 中川健造氏 | ||
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| 「偉大な指導者 周恩来」展<広島展>の開幕式に出席し、大変な感銘を受けました。 ひときわ強く心を魅(ひ)かれたのは、2体の駱駝(らくだ)の剥製(はくせい)で、敦煌(とんこう)芸術院から池田名誉会長に贈られたもの。「金峰(きんぽう)」「銀岳(ぎんがく)」との2体の名付け親は、今は亡き同院名誉院長の常書鴻(じょうしょこう)画伯とうかがいました。 常氏は、世界最大の“砂漠の大画廊”敦煌を守り抜いた文化の恩人です。無理解、弾圧と戦った常氏を、周総理はずっと励まし続けていたと。 生前の常氏と、私も10年前にお会いしました。北京の協和病院に入院していた愛新覚羅溥傑(ふけつ)氏(ラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀(ふぎ)氏の弟)を見舞うため、病室を訪ねた折です。 ちょうどそこに、常氏と夫人の李承仙(りしょうせん)女史も、見舞いに来られていたのです。 夫妻は、私が日本人と分かると、「創価学会の池田先生をご存知ですか?」と聞かれ、「私たちの写真を撮って、お届けしてほしい」と、懇願されました。 理由をうかがうと、「夫妻して元気でいることを、ぜひ、お伝えしたいのです」と。夫妻がどれほど名誉会長を慕われているか。その一端を垣間見ました。 そんな常氏が名誉会長に贈った駱駝を前に、童謡「月の沙漠」(加藤まさを作詞・佐々木すぐる作曲)の一節が蘇(よみがえ)ってきました。 「月の沙漠を はるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍(くら)置いて 2つならんでゆきました……」で始まる歌の中で、「金の鞍には銀の甕(かめ)、銀の鞍には金の甕」があり、2つの甕は、紐(ひも)で強く結んであったと謳(うた)われています。 中国人民の幸福に全てを捧げた周総理、そして民衆勝利への大連帯を築き上げた池田名誉会長――。 2体の駱駝を贈った常氏の胸には、2人の“人道の巨人”の心が1本の太い紐で結ばれ、日中友誼(ゆうぎ)の新章節が築かれていく未来が、ありありと思い描かれていたのではないでしょうか。 |
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