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![]() 家族と楽しく。左から田川さん、息子の正寿ちゃん(7)、母のシマ子さん、妻の淳子さん(40) |
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| 田川寿一
(たがわ じゅいち)さん(41) 広島市安佐南区在住 |
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教育のあり方を見直せ! 一人の少年がつぶやいていた。 「いじめられてる子を助けたら、みんなにそっぽ向かれちゃった」 「先生は“みんなと仲良くしなさい”としか言わなかった。悪いことしたのかな?」 小学一年生の言葉である。 何か、おかしい。何か、ずれている。 戦後50年、これまでの教育のあり方が問われている。 「だからこそ今、子どもたちに全力を注ぎたい!広い心、思いやりの心、世界に開かれた自由な心を育みたい」と語る田川寿一さん。 | |
![]() ドイツのハンブルグ日本人学校時代 |
似ているようで似てない独と日 昭和56年4月から3年間、ドイツのハンブルク日本人学校に赴任した田川さんは帰国後、小学校で国際性あふれる授業を進めてきた。2年前、自らの教育実践をまとめ共同出版。そこに掲載した論文が「地域に根ざした国際理解教育の実践」と評価され、全国教育研究連合会から教育表彰を受賞。 また38歳で広島大学大学院(学校教育研究科)を受験し合格。1995年春、最高齢で修士号を取得した。 |
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ドイツでは、ナチスによるユダヤ人虐殺という「歴史的事実」に対し、疑問を口にしただけで罪に問われるという。 ドイツと日本――。多くの庶民を犠牲にした“アウシュビッツ”と“原爆”、そして“敗戦”。同じような歴史をたどりながら、この二つの国の意識の違いはどこから生まれたのか。 教育である。 初めてドイツの小学校の授業を見学した時、田川さんは目を丸くした。まずラジオ体操。どこの学校でも、律義に整列したり、号令をかけたりしない。「人を形式にはめ込むことはナンセンス(無意味)」「軍隊みたいだから」との理由。バラバラに集まるのだが、楽しく伸び伸びと体を動かす子供たちの笑顔が、とても印象的だった。 そして独特のカリキュラム。授業の進め方、教材は自由。一人一人の教師が熟慮して決めるという。 だが一番驚いたのは、子どもたちの発言力、批判力の鋭さだ。小学校低学年の子どもでも、授業に納得しなければ「先生、それは違う!」とはっきり意見する。 「真っ向から抵抗してくれる子どもを育てることが“最高の誉れ”」と微笑む。“ヒトラー”を生み出した国の体質、それになびいた国民の油断、主体性のなさ――。ドイツでは、それら一つ一つへの反省が教育の現場に強く生かされいる。 田川さんにとって、ドイツでのこの三年間は大きかった。 |
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いつも感じてきた母の祈り 原爆が投下された時、母・シマ子さん(82)は爆心から1・4_の中広町で被爆した。10年後に生まれた田川さんの体にも後遺症が。高校3年生の時、肺結核に。しかし、信仰に奮い立って克服。それを機に、田川さんは“生涯を平和のために”と誓い、教育の道を志すようになった。 田川さんの心には、母・シマ子さんとの思い出が、いくつも刻まれている。 家業だった佃煮屋の倒産、被爆後遺症との戦い、夫の酒乱、そして夫の死――。思えば、苦労づくめの人生を送ってきたはず。それでも辛い顔一つせず、5人の姉と自分を必死に育ててくれた。 あれは田川さんが肺結核に苦しんでいた時のこと。あの時の母は怖かった。 「いさぎよう、病気と戦いんさい!」「男じゃったら、泣いたら承知せんよ!」――。そうやって強く叱りつつ、自分は目にいっぱいの涙が浮かべ、顔をそむけた母。 ハラハラしながら突き放し、突き放しながら温かく見守る“母心”。その慈愛があったからこそ、田川さんは負けなかった。 「振り返ると、僕の人生は、ずっと母の祈りに支えられてきたんじゃないかな」「いくら勉強しても、母以上の教育者には、絶対になれませんよ」 | |
![]() 中国の由明哲さんとの語らい(手前) ![]() 広島青年平和委員会のメンバーと韓国へ(左から3人目) ![]() マレーシアの中華大会堂で(中央) ![]() シンガポールの中華系住民と懇談(右端) |
世界で結んだ“友情”を胸に 田川さんは、これまでヨーロッパ15カ国・地域、そして韓国、シンガポール、マレーシア、中国などアジア4カ国を訪問。それぞれの国の人の顔、土地の香り、生活、歴史観――実際に足を運び、見聞してきた。 「広島に、もう一つ原爆を落としてやればいいのに――」 アジア各国を訪れ、何度も痛烈な批判を投げ掛けられた。そのたびに両手で耳をふさぎたくなった。 でも、それとは逆に、掛け替えのない友情も結んできた。 その一人が中国の由明哲さん。由さんは、広島大学留学中に被爆。ひん死の重傷を負い、命からがら帰国したものの、そこで待っていたのは、親しかった友人・知人の死の知らせ。故郷は、日本軍の侵略でボロボロにされていた。 そして、おそってきた被爆後遺症。内臓疾患、極度のけん怠感、貧血などで50年間、ずっと苦しみ続けてきたという。 しかし、日本政府は、由さんをはじめ中国、アジアの被爆者に、何の手当ても補償も考えなかった。“侵略”という罪に対しても、ずっと知らん振り。無惨にも、その人たちの“痛み”を、葬り去ろうとしたのだ。 それでも由さんは、初対面の日本人・田川さんに、ニッコリ微笑みながら、こう語り掛けてくれた。 「広島は第二の故郷です。広島の人たちと交わした友情は変わりませんよ」 熱いものが込み上げてきた。周囲がどうであろうと“ひとたび結んだ友情は永遠”――その心がたまらなくうれしかった。 「あの時、人間としての“本当の正しさ”を見ました」と。 これまで一貫して子供たちに“平和の心”を伝えてきた田川さんは、折に触れ、被爆の悲惨さとともに、自ら体に染み込ませてきた海外での体験を語っている。 田川さんの話を聞き、一人の少年がこうつぶやいていた。 「だんだん世界が狭くなってくるようだね」 「みんな友だちなんだね」 |
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